楽しい本作り生活

「文響社」という出版社で書籍デザイナーとして働きながら、本や漫画、映画や舞台など多くのものに刺激をもらっています。 ここには自分が日々感じたことを備忘録的に書き残していきたいです。 たとえ明日自分がこの世界にいなかったとしても。少しでも他者を勇気付けたり、楽しませるものを世に送り出しておきたいと願っています。 よろしくお願いします。



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●前置き

2022年7月24日。猛暑の中、僕は日本青年館ホール前の行列に並んでいた。その先に待つのは「東京ゲゲゲイ歌劇団vol.V 『KIRAKIRA 1PAGE』」の舞台。東京ゲゲゲイの現メンバーでの最後となる公演、その最終日のラストステージだった。


あの舞台を目の当たりにして…言葉にならない感情に揺さぶられるように涙を流して、もう1ヶ月以上が経つ。それでも、いまだにこのブログに感想をまとめることができていない。これまで(他のブログを運営している時から)ゲゲゲイのパフォーマンスを見るたびに、感想を文章にしてまとめてきたけれど、こんなに間が空いてしまったことはなかった。


…ただ、それも実際必要な時間だったのかもしれない。この1ヶ月の間に僕はライブの翌日に書き殴った下書きを何度も書き直していた。何が書きたかったのか整理し直したり、過去の自分の記事を引っ張り出してきて読み返したり。熱に任せて、勢いで書いた最初の感想は、あまりにも個人的な事象に溢れ過ぎていて、このブログでよく使う「自分のための文章」という前提を踏まえてもなお、意味不明なものになってしまっていた。


それはきっと、これが今のメンバーで見る東京ゲゲゲイの最後のステージだったからだろう。この舞台だけの感想に留まらず、僕がこれまで見てきた幾つかの公演の記憶と、その時の自分の感覚が複雑に絡み合ってしまって。過去や未来のいろいろな感情が混在してしまう。そしてまた、BOWさんについてもそうだ。東京ゲゲゲイのことを…というよりも、そのメンバーのBOWさんのことを書こうとすると、僕にとって正確な言葉を探すことが難しくなる。以前、蓬莱氏の舞台『首切り王子』の感想記事にも書いたけれど、僕がBOWさんを応援したいと思う感情は、いわゆるファン心理というものよりも、もっと自分本位でもっと身勝手なものだ。彼女の眩しいくらいの輝きに照らされることで、自分の現在地を理解している。


1ヶ月の試行錯誤の冷却期間を経て、ようやく少しは客観的な視点で自分の感情を整理できるようになった気がするが、同時に冷静になるほどに自分が本当に感じたことと、文字としての言葉の剥離が大きくなっていくような気がして、結局こうして書きながらも、何度も書いては消してを繰り返す羽目になった。


それでも。きっとうまくまとめられないと思うけれど、それでもやっぱり向かい合ってみたい。自分のために、あの日自分が見たものと感じたものを、できるだけ書き残しておきたい。




●開演、そして生命力の伝播へ

7月24日当日。会場までの道のりはまさに夏らしい気温だった。長い列に並んで、ホールの中の自分の席にたどり着く間に何度も冷感シートで汗を拭った。観客席は涼しかったけれど、どこか熱気を感じていた。空席をお客さんが埋めていくごとに、静けさの中にも興奮と熱気が高まっていく。僕もなんだかドキドキした。今から始まるパフォーマンスに何も心配はないけれど、それを自分がどう受け止められるか。何を感じられるか。それに対する期待感や、緊張感で鼓動が速くなっていくのがわかった。


開演の直前になって、空いていた隣の席に懐かしい顔の女性が座る。数年ぶりに会う中学時代の同級生だった。堅苦しい挨拶を交わす必要もなく、一言二言のラリーですぐに軽口を叩き合う当時の関係性に戻ることができて、それがなんだかとても嬉しかった。


そして幕が上がる。そこから先はいつもと変わらぬ、キテレツメンタルワールドが待ち受けていた。華やかで妖しい。煌びやかで切ない。激しいダンスと音楽の振動が客席に襲い掛かってくる熱狂の世界だ。

まるでアニメーションのコマ落としのようなダンスのキレは変わらない。僕は何度見てもこの敏捷性に馴れない。本当に人の動きなのかと疑いたくなる。


ステージの上でゲゲゲイの5人が躍動するごとに、見ているこちらにもその生命力が波紋のように広がっていくのがわかる。そう。ダンサーBOWさんの活躍に触れて、それまで縁のなかった歌と踊りの世界を知っていく中で、僕も少しずつ理解したことがある。

それは圧倒的なパフォーマンスには生命力を伝播する力があるということ。力の限りに腕を振り、脚をあげる。その躍動のひとつひとつが観る側にも、滾るような活力となって伝わっていくのだということ。


コロナ対策のために観客席にいる我々はマスクを外すことも、声を上げることもない。でも、確かに観客席にまで熱が広がっていくのがわかる。水が沸騰していくように、次第に会場全体が一体感に包まれていく。その中の一部になるのは心地良かった。開放感と安心感—何か矛盾する二語のようにも思うけれど—その二つが同居する不思議な感覚だった。


2018年の1月20日。大手町にて『東京ゲゲゲイ歌劇団vol.2』を見た時、僕は当時のブログにこんな文章を書いた。


「ユニット名だけを見れば、一見性的マイノリティの悲恋や屈折を伝えているようにも連想してしまいがちだけれど、ゲゲゲイが発信しようとしているメッセージは、それよりももっと普遍的なものなのではないかと思う。

性別や思考のマイノリティ、マジョリティに関係なく誰もが持っている迷いだったり、不安だったり、他者とのギャップ、自分の内面とのズレ。そんな苦しみにそっと手を添えて、笑いを添えて。『それでも前を向いていくんだ』というパワーをくれる。

あくまで個人的感覚だけれども、僕はそんな『優しさ』をこの2時間の中で何度も感じた気がする。」


そう。ゲゲゲイのパフォーマンスに満ちているのは肯定なのだ。存在の肯定と、生への肯定。挑戦すること、人を愛すること、誰かを応援すること、夢を持つこと。それら全てを肯定してくれる時間だ。それはきっと、僕がこの記事を書いた時からずっと変わらない。圧倒的な完成度と、非現実的なまでに躍動感に溢れる彼女たちが、僕らの全てを肯定してくれる。


BOWさんは、お子様を出産されたばかりとは思えないほど、普段を変わらぬ激しいパフォーマンスで会場を沸かせていた。それがすごくカッコ良くて、僕はもうそれだけで涙が出そうだった。(隣にいた友人に曰く、開幕早々から僕は泣いていたそうだが)





●皆、変わらない。生身の人間だからこそ。

圧倒的な完成度。…そう書いたけれど、彼女らの魅力はそれだけではないことはもちろん承知している。今回の公演では幕間の度にショートムービーが上映されるのだけれど、そのテーマは4人のメンバーそれぞれが最後にマイキーさんにお願いしたいことを告げ、それを叶えていくというものだった。(これが本当に素敵な映像で、メンバーの皆様の温かさが伝わってきて、最後になんてものを見せるんだと思うくらいすごく良かった)


詳細は伏せるが、それぞれがマイキーさんとやりたかった「願い」を叶えていく中で、その間に互いへの思いや未来への展望が語られる。その時カメラが捉えているのは、彼女らの完璧さではなく、素朴さであり、か弱さであり、不安や葛藤…。そしてこれからゲゲゲイとしてではなく、自分自身が叶えていくであろう、おぼろげな夢。


そんなやりとりを見ていると、舞台の上ではあんなにも完璧で完全で。何の恐れも迷いもなく見える彼女たちも、僕らと変わらない一人の人間なのだと痛感する。


そりゃ不安だし、怖いよなって。メンバーによってはゲゲゲイというチームや、マイキーさんという存在はあまりにも大きな自身の居場所でもあったはずだ。そこから巣立っていくことへの怖れ。人生の選択、体力との戦い、自己実現…。大変なことやハッキリしないことはいくらでもある。


でも、そういう彼女らの『普通さ』が露わになるからこそ、ステージの上での輝きがより一層眩しく見える。彼女らがこの10年間で描いてきた軌跡が、より一層凄みを増し、僕らにももっともっと強い光となって届く。


2019年1月30日。六本木EXシアターで行われた『東京ゲゲゲイ歌劇団vol.3 〜黒猫ホテル〜』。あの、圧倒的なパフォーマンスを見た際に、当時の僕はブログにこんな文章を書いた。


「超然的な表現者も絶対者ではない。同じ生身の人間である以上、その内面にはきっと(表に出さないとしても)葛藤や自問自答があり、乗り越えるべき壁もある。もしも、表現者にとっての『ステージ』がそれらに対する回答であり、自己肯定の場であるのならば。彼らの姿を観に足を運んでいる一人のファンとしてこんなに嬉しいことはないのだ」


彼女たちが同じ生身の人間なんだってことに僕ら観客が気づいた時、初めてこの舞台が観客側からも何かを与えられる場に変わっていく。

不安や葛藤を抱えるメンバーたちに、今までの軌跡がどれだけすごいことか。こちらがどれだけのものを受け取っているかを提示することができる。現メンバーにそれを伝える最後の場所だからこそ。制限がある中でも僕ら観客席は精一杯のエールを送り返していたように思う。





●バニラグロテスクから10年が経つ。

ヒートアップしていく最後の公演の中で、僕は初めて『ダンサーのBOWさん』を知った日のことを思い出していた。あれは10年前。2012年の3月24日だった。当時の僕は就職先も、この先の生活も決まらぬまま、翌月には大学を出て行かねばならない美大生だった。自分のそんな現状が嫌で、情けなくて、心の中には焦りばかりが渦巻いていた。


そんな時に縁あって舞台を観にいったのが、東京ゲゲゲイの前身である『バニラグロテスク』の公演『護美屋敷』だった。あの時、今日と同じように中学時代の友人たちと一緒に初めてのダンスパフォーマンスを見た。そしてBOWさんに目を奪われ、体験したことがないような胸の熱さを感じた。そしてその間だけ、憂鬱な日常が僕の脳裏から掻き消えていた。


「ゲゲゲイとしてのBOWさんは今日が最後」。初めからそれを意識していた自覚はなかったのだけれど、会場で熱に当てられているうちに、どうしてもあの『護美屋敷』の記憶が目の前の光景と重なっていく。そんな時、僕にとって嬉しいサプライズがあった。なんとゲゲゲイの皆さんがその『バニラグロテスク』時代のメドレーを披露してくださったのである。


護美屋敷の観劇当時、当時書いていたブログに、僕はこう感想を書き残している。(一部抜粋)


「また衝撃。そして閃光。

一糸乱れぬ動き。機械の様に無機質な動作。

一瞬見えて、また見えなくなる。

そして衝撃。閃光。


腹の底までえぐり込まれる、攻撃的なまでの導入部だ。

わけもわからぬまま、一気にこの『護美屋敷』の世界へと引き込まれていく。


ダンスの知識等まるで無い俺にもわかる。小さな子供から大人まで、ダンサー達の動きが恐ろしい精度で連結され、まるでひとつの生命体の様に妖しく蠢いたり、プログラミングされたロボットの様に整然と動いたり。その動きがどれほど高度なことなのか。息を飲んで、見入る。


その圧倒的な動きの迫力に目が慣れ始めると、舞台上の『全て』から醸し出される強烈な不安感にようやっと気が付く。

衣装はやたらに性を意識した下品さがあり、ナレーションは不明瞭であり、照明は強烈で音楽は過激で。不協和音同士を擦り合わせることで、ひとつのメロディを奏でようとしているような。そんな、鳥肌が立ちそうになる倒錯した世界観を、絶対的なダンスの秩序が包み込んでいる。だから、辛うじて安心できる。ああ、これは舞台なんだなとホッとする。そんなステージである。


制作や表現というものがすべて『カタルシス』を目的としているのならば、普段大学で俺たちが手がけている作品は、いわば順序立てられたカタルシスだ。導入路を敷いて、伏線を張って、疎密を気にして緩急を気にして、そして最後の見せ場を作る。そんな常套手段のカタルシス。


けれども今目の前にあるステージはそんな手段を全て斬り捨てている。

あるのはONかOFFか。生か死か。解放か抑圧か。

カタルシス以外は全て死んでいる様な。最高速で切り替わるその関係。だから新鮮で、不安で、俺が普通に生きていたならば目にすることはなかったであろう。ステージ。


…そんなことをぼんやりと考えていたら、ステージの上にスキンヘッドの女性が現れた。どんなに多くのダンサーに囲まれても一際目立つ彼女は、技を失敗してみせたり、おどけたりとコミカルな役柄に徹して会場を沸かせている。


衝撃だった。


いつの間にか、彼女に全力の拍手を送っていた。

『カッコいいぞ!』と叫びたかった。」



あの、僕が「かっこいいぞ!」と拍手を送った彼女が、10年たった今こんなにも大勢のお客さんの前で、そして自分の目の前でパワフルなパフォーマンスを披露している。視界がどんどんぼやけていく。あの時、苦しかったこととか、嫌だったこととか。その後の10年間で経験してきた様々なことが全部フラッシュバックして。本当に、人生の節目節目でこの人の活躍が自分を奮い立たせてくれていたんだってことを再認識した。





●自分にとっての10年間。

10年。口にすれば一言だけれど…あれから僕はどれだけ前に進めたのだろう。あの時、仕事も決まっていない僕には、久しぶりに再開する中学時代の友人達がすごく立派に見えて顔を合わすのにも引け目を感じてしまって、とても嫌だったことを覚えている。「今何をやっているの」という問いに、精一杯の抵抗を込めて「フリーランスのデザイナー」と答えたっけ。本当はただの無職だったのになぁ。と苦笑する。


けれど、そんな自分への情けなさとか、明日への長い憂鬱を吹き飛ばしてくれたのがバニラグロテスクと、BOWさんだった。直接的な感動だけではなく、自分のやりたいと思うことに全力を注ぐことのカッコよさを目の当たりにして。なんだかクラクラするような衝撃を受けた。


それから10年。僕は多くの挫折を経験しながらも、それでも家庭を持ち、憧れていた仕事に就き。そしてこうしてまた大切な友人とともに彼女のステージを眺めている。


ふと考える。今日まで僕はあの輝きに恥じない生き方ができたのだろうか。BOWさんは本当にすごくて。ずっとずっと自分の憧れの存在だったまま、当時には想像もできなかったほど、すごい場所へと行ってしまったような気がする。そして、それを思う時、僕はいつも自分の足元を見ている。


結局僕はいつもそうなのだ。首切り王子に書いた言葉と同じ。BOWさんが照らしてくれる強い光によってできる自分の足元の影を見て、現在地を認識してきた。だから、本来のファンの皆様とはきっと違う想い方をしている。でも、その現在地が少しずつ前進しているのを実感して、それが喜びで。また次の毎日への活力にできていたのは紛れもない事実だ。


ああ、うまくいえないな。でも「BOWさんに追い付きたい」なんておこがましいけれど、ともかく彼女に恥ずかしくない生き方がしたかった。同じ時間の中を生きている人間でいたいと思っていた。BOWさんがダンスという戦場で戦っている時間に、自分も、自分の戦場で同じように戦いたいと思った。そして何かを勝ち取りたいと思い続けてきた。


BOWさんが投げかけてくれるのは、いつだってエールだった。できないことなんて何もないということを、彼女自身が常に先行して証明してくれる。まるで世界を照らす松明の炎のように僕には見えていた。


だからこそ彼女の、彼女たちのくれる熱気に当てられた後は常に自問してしまう。自分はどうだろうかと。自分のやりたいと思うことに命を燃やせているだろうかと。


時間はひたすら流れていくばかりで、こちらの戸惑いに合わせて立ち止まってはくれない。生まれた瞬間から落ち続ける砂時計の砂は待ってはくれない。その中で人は託されたことをやっている。それは誰かから託されたことでもあるし、自分で辿り着いた果てのよすがでもある。


「尊敬」だとかそんな堅苦しい言葉ではなく。「陶酔」だとかそんな遠い感情でもなく。うまく置き換えられる熟語がないのだけれど、自分もこんなふうに生きてみたいと思う姿を近くで見続けられたことは本当に幸福だったと思う。


10年前の、あの瞬間。自分にとって嫌なことばかりの状態だった世界を肯定してくれた存在が、今新たなステージへ羽ばたこうとしている。また同じ時間の中で僕らはどこまで進めるだろう。彼女のように僕も誰かを照らせるだろうか。





●卒業する

そんなことを考えていると、また堪えきれずに涙が出た。そしてまた多くの興奮と、笑顔と。熱狂の中で、ステージは最後の瞬間へと向かっていった。熱狂のパフォーマンスもいつかは終わりの時間がくる。ピークに達していた熱気が次第に落ち着き、どこか寂しさを携えながらやがて収束していく。生きることへのエールを送り続けてくれたメンバーたちを、今度は観客席が無言の声援と共に送り出すような。そんな最後だった。


メンバーの皆様は泣いていた。


これは自分が部外者だからこそ言えることだと思うけど、この変化はきっと必要なことなのだろう。彼女らがもっと大きく羽ばたくために。卒業という言葉で表されたこの舞台は、まさに4人の門出だったように思う。


卒業は別れではなくて、巣立ちなのだ。何を成すべきか。どう生きるべきか。そんな永遠の問いに今後はメンバーそれぞれが自分なりの答えを出すために戦っていく。その門出を僕ら観客席の全員が祝福を込めて、涙と汗と共に見守ったのだと僕は思う。


この『KIRAKIRA 1PAGE』はこれまで自分が見たステージの中ではもっともシンプルな構造だった。ひとつのテーマや方向性がなくて、満遍なく素敵だった。「今の自分たちのありのままを」。まるでそう言っているかのような舞台だった。


閉演後、会場に詰めかけた多くのお客さんが会場を出るための長い列を作る。今日、このステージだけでいったい何人が彼女らの卒業を見送ったのだろう。ツアーを全て含めれば、いや会場にこられなかった人までも含めれば、いったいどれほど多くの人たちを熱狂させ、その心に火を灯してきたのだろう。すごいよな。本当にすごい。


「かっこいいぞと叫びたかった」

10年前のブログに書いたあの言葉を、僕は再び心の中で繰り返していた。かっこいいな。本当にカッコよかった。東京ゲゲゲイの皆さん、本当に本当にありがとうございました。

彼女らに灯してもらった火と共に、僕はまた次の10年を生きていく。






※今回の記事を書くにあたり、過去2つのライブの感想記事を別のブログから移籍しておきましたので、もし良かったら下記のリンクから読んでみてください。どちらも当時の自分の語彙力でなんとかライブの魅力を伝えようとしています。






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